株オンライン

当サイトでは、株オンラインなど人気のある投資顧問の実績や評判を検証しています。


株オンラインの推奨株の事例【不動産会社・測量会社】

日本アジアグループ(国際航業の親会社)

業種 測量、エネルギー
推奨時点の株価
(推奨日の始値)
343円
(2020年10月28日)
推奨後の高値 855円
(2020年11月30日)
株価の上昇倍率 2.4倍
現在の株価 こちら→
市場 東証1部
(米投資会社カーライルらによるTOBで2021年に上場廃止へ)
証券コード 3751


国際航業の歴史

創業

官僚出身の斎藤外男氏

国際航業の創業者は、官僚出身の斎藤外男氏である。斎藤氏は福井県生まれ。逓信省(現在の総務省及び日本郵政グループ)に入省。公務員を退職した後、第二次世界大戦下の日本帝国の輸送業務を担う国策会社「大日本航空」の役員(理事)を務めた。

「三路興業」を設立

大日本航空は敗戦で解散した。すると、斎藤氏は1947年、旧・大日本航空の他の理事や監事らとともに、新会社「三路興業」を設立した。これが、現在の国際航業の原点である。

飛行場の施設を管理

新会社には、飛行場用地や格納庫などの不動産(土地・施設)が現物出資された。これらの不動産を管理する会社としてスタートした。

斎藤氏は当初常務に就任した。しかし、ちょうどそのころ、占領軍による公職追放の動きが拡大し、逓信省と国策会社の幹部を務めた斎藤氏らにも、追放の手が迫っていた。そこで、設立から2か月後、混乱を避けるため、全役員が辞任した。

航空測量の会社へ

翌年、役員が復帰し、斎藤氏が社長に選任された。同時に、社名を「国際不動産」に変えた。しかし、所有する土地や施設の大部分が連合国軍の管理下にあった。不動産事業での積極的な事業展開が難しかった。

新分野

斎藤氏ら経営陣は、新分野へ参入せねばならなかった。旧・大日本航空には「航空写真測量」部門があった。1949年、子会社として「日本航測」を設立した。

社名を「国際航業」に変更

日本航測では、元陸軍の測量技術者などを多数採用した。数年で業界トップに成長した。1954年には、国際不動産が子会社の日本航測を吸収合併した。社名を「国際航業」と改めた。航空測量だけでなく、土木設計、環境調査などにも進出していった。

1961年に上場

1961年、東証2部に上場した。1987年には東証1部に昇格した。

仕手筋による株買占めと会社乗っ取り

バブル経済時代の1980年代後半、仕手筋による株買い占めのターゲットになった。買い占めたのは、「兜町の錬金術師」と呼ばれた小谷光浩氏が率いる「光進」(当時:コーリン産業、大阪市)だ。

バブル期に急騰

1987年5月に2000円台だった国際航業の株価が徐々に上がり始めた。7月に4000円台をつけた。

会社乗っ取り屋

光進が株を買い占めていたことが判明すると、会社側はあわてた。光進は1970年設立。不動産業のほか、ホテル分野も手がけていた。1980年ごろから、東京都心で地上げを始めた。その後、「飛島建設」「蛇の目ミシン工業」、電子機器販売会社「協栄産業」などの株式の買い占めで名を馳せる。仕手筋の領域を超えて、会社乗っ取り屋として警戒されるようにった。

国際航業株の取得も、国際航業が都心や米国に保有する不動産などの資産に目を付けた「会社乗っ取り」とみられた。

これを受けて、国際航業側は、子会社の貴金属販売会社「ウイング」の社長が、光進対策に乗り出した。

三塚博・元運輸相が仲介

当時の新聞各紙の報道によると、1987年8月、ウイングの社長は、自民党の有力政治家である元運輸相(国土交通相)の三塚博・衆院議員(宮城1区)に相談を持ち掛けた。そして、三塚氏のお膳立てにより、光進の小谷光浩社長と、国際航業の桝山(ますやま)明社長の会談が実現した。

社長と小谷氏が会談

この席で小谷氏は、桝山社長に対して「国際航業株の過半数を買い占めた」と打ち明けたとされる。これを受けて、桝山社長は「私にこのまま会社経営を任せるか、私を追放して会社を乗っ取るか、あるいは私と一緒に経営するか。それはあなたの自由だ」と対応。小谷氏は「共同経営」を選んだ。ただ、実際は、株の過半数を買い占めておらず、保有比率は約45%だった。

覚書

会談の3日後、三塚博・元運輸大臣の立ち合いのもと、小谷、桝山両氏が再会。覚書が交わされた。覚書は「国際航業の資金で、両社が対等に支配権を持つ新会社を設立する」とした。

顧問弁護士が「無効」

覚書交換からしばらくして、国際航業の桝山社長は会長にこれを報告する。会長とは、自らの父親である桝山健三氏だ。しかし、会長らから「とても受け入れられない」として、はねつけられた。会社の顧問弁護士も「取締役会の承認がなく、覚書は無効」との見解を示した。桝山氏は弁護士を通じてその旨を小谷氏に通知した。

ブラックマンデーでも底堅い値動き

1987年10月、株価は7000円まで上昇した。ブラックマンデーの暴落相場(10月20日)でも、6120円までしか下落しなかった。兜町では「覚書交換」のうわさが広がり、怪文書が出回り始めた。

親子によるお家騒動

その後、国際航業の社内では、社長(桝山明氏)と会長(桝山健三氏)の親子による争いが激化する。息子である社長の対応に不満を募らせた会長は、なんと、光進側と手を結び、社長追放に乗り出したのだ。

国際航業の株主総会を1週間後に控えた1988年6月21日、会長は自らが所有する株式の議決権行使を光進側に委任したことを明らかにしたうえで、社長退陣を迫った。株主総会は議決権をめぐり紛糾の末、なんとか社長側が退任せずに乗り切った。

光進がついに経営権を取得(乗っ取り成功)

1988年12月、光進は株主としての権利を行使し、国際航業の臨時株主総会を招集させる。総会で自らが推薦した新取締役15人の承認に成功。桝山明・社長を解任し、ついに経営権を握った。

後任社長には、友納春樹(とものう・はるき)氏が就任した。友納氏は元京セラ副社長。光進側の推薦で取締役に選ばれた一人だった。

役所や企業が発注回避

光進に支配されたことは、国際航業の経営にとって大きなダメージとなった。当時、国際航業は航空測量を中心として、地質調査や海洋調査、建設コンサルタントを事業としていた。売上高は、約400億円だった。その約9割が官公庁からの発注で占められていた。

受注先の官公庁・自治体や大企業から、「仕手筋が経営に関与するとなれば安心して発注することができない」として、発注や指名を回避する動きが相次いだ。測量内容は役所や企業にとっては機密事項である。仕手戦に悪用されたらたまらないというのが、発注側の懸念だった。

労組が辞任勧告

これを受けて国際航業の労働組合は1990年3月、実質的オーナーで、取締役でもある小谷氏の取締役辞任勧告を決議した。

小谷氏の強引な経営方針への反発も強く、例年60~70人だった退職者が2倍の約120人にのぼった。優秀な技術者の転出も相次いだ。

光進側の推薦で社長となった友納氏も、光進側と一線を画すようになった。

東京地検が光進にメス

その後、光進が国際航業から「融資」という名目で巨額のお金を引き出していたことが判明。東京地検特捜部は1990年6月、光進本社の家宅捜索に踏み切った。これを受けて、小谷氏は取締役を退任した。

捜査の過程で、小谷氏は国際航業から数百億円ものお金を引き出し、光進グループの資金繰りを図ってきたことが判明。そのほとんどは、新たな仕手戦のための株購入資金に使われていた。要するに、国際航業という会社を猛烈な勢いで食い荒らしていたのだ。

1990年7月、東京地検は小谷氏を別の事件(藤田観光株の株価操作)で逮捕。8月に起訴した。その後の刑事裁判において、藤田観光の株価操作及び蛇の目ミシン工業に対する恐喝で有罪判決が下された。

<参考>バブル期の株価操作などをめぐる動き

1988年7月26日 協同飼料株価操作事件(1972年)で東京高等裁判所は協同飼料、協同飼料社長らに有罪判決。
1990年6月21日 「日新汽船」株のインサイダー取引(証券取引法違反)で金融会社前社長を証券取引法違反の疑いで警視庁が書類送検。インサイダー取引初の摘発。
1990年8月9日 国際航業の株買い占め、乗っ取りに絡んで藤田観光株の株価操作を行った仕手集団「光進」の小谷光浩代表ら2人を、東京地検特捜部が証券取引法違反の疑いで起訴。(7月19日逮捕)
1991年5月1日 マクロス(旧谷藤機械工業)の不祥事公表前に自社株を売却したマクロス専務を、インサイダー取引容疑で東京地検特捜部が摘発。在宅のまま起訴(7月26日)。大蔵省の告発による初のインサイダー取引摘発。

経営再建

蛇の目グループが筆頭株主に

蛇の目ミシン工業グループは、小谷氏が逮捕される前に、光進系の不動産会社「ナナトミ」)に対して数百億円の融資を行っていた。この際、光進が保有する国際航業株を担保にとっていた。

ナナトミが倒産したことから、1991年3月、蛇の目は融資の担保権を実行するため、国際航業株のTOB(株式公開買い付け)を実施した。この結果、国際航業株2134万株を取得。主要株主になった。

光進の破産宣告

1992年4月には、光進と小谷代表が破産宣告を受けた。1992年7月、第一回債権者集会が東京地裁で開かれ、届け出債権は計2300人、約2000億円に上った。ここでも蛇の目ミシンが最大規模の債権者となった。

1997年の時点で、蛇の目ミシンは国際航業の38%を取得。圧倒的な筆頭株主となった。

友納社長の奮闘

一方、国際航業の社内では、光進が倒産した後も友納春樹社長は退任せず、経営トップにとどまった。10年間トップを務め、経営再建に取り組んだ。

友納氏は、もともと富士通の出身だった。富士通から車載用トランシーバーを製造する「サイバネット工業」に移り、社長就任。過激な労働運動に手を焼いた。

カリスマ・稲盛和夫氏に救われた

サイバネット工業が経営不振に陥ると、京セラのカリスマ経営者・稲盛和夫氏に救いを求め、会社ごと買収してもらった。その後の功績が稲盛氏から評価され、京セラ副社長に昇格。光進の目にとまり、国際航業の社長に就いた。

つまり、乗っ取り屋から送り込まれたとはいえ、友納社長はそれなりの苦労人であり、偉人経営者の稲盛氏が認めるくらいの力のある経営者だったのだ。

後任社長に生え抜きの田中清隆

1999年6月、友納社長は代表取締役会長に退いた。後任には生え抜きの田中清隆(きよたか)氏が就いた。当時57歳だった。

田中氏は京都府出身。1966年東海大海洋卒。1993年取締役、1996年常務、1998年副社長へと順調に出世していた。会長となった友納氏は翌年、心筋こうそくのため死去した。73歳だった。

田二谷正純社長

2004年6月、さらに経営陣の若返りが図られた。田二谷正純氏(たにや・まさずみ)が新社長に就任。52歳という異例の若さでの抜擢だった。

優れた技術者

田二谷氏は石川県出身。東北大理で地球物理を専攻。卒業後、研究生として海洋観測船に乗ったのがきっかけで、国際航業を紹介され、1976年に入社した。社内では優れた技術者として力を発揮する。関西空港の海上島を作るために海中に土砂を積み重ねる工程では、田二谷氏が携わったシステムが採用された。2002年取締役、2004年常務。

空間情報ビジネスを強化

田二谷社長は、地図のデジタル化に代表される「空間情報ビジネス」の強化に取り組んだ。環境や防災、福祉など、目的に応じた情報の整備を推進した。

ジェイ・ブリッジ(現:アジア開発キャピタル)が買収

蛇の目ミシンは2005年10月、保有していた国際航業の全ての株式(比率30%)を売却した。売却先は、東証二部上場の投資会社「ジェイ・ブリッジ」(Jブリッジ)だ。現在の社名は「アジア開発キャピタル」という。

ジェイ・ブリッジは株式取得後、取締役を派遣した。さらに、国際航業と業務提携を締結。ジェイ・ブリッジが事業提携先を紹介するなどして、既存事業の拡大や新規事業の展開を図ることにした。事業展開を推進する上での投資資金も、国際航業が要請する場合は、ジェイ・ブリッジが資本増強などの調達を全面的にサポートする方針を明らかにした。

日本アジアグループが買収

しかし、約1年後の2006年12月、ジェイ・ブリッジは全ての株式を売却した。売却先は、非上場企業の日本アジアホールディングス(現:日本アジアグループ)だ。

日本アジアホールディングスは、日本アジア証券を子会社に持つ。モスインスティテュートやメデカジャパンなどにも出資する新興の投資会社。

こうして、国際航業は、日本アジアホールディングス傘下で新しいスタートを切ることになった。